便所の壁を探して

僕がTwitterを始めたばかりの2011年頃、まだTwitter便所の落書きで一部の意識高い人がカッコイイことを述べているくらいで、あとはくだらないネタかその日の食事ばっかりだった気がする。見ても見なくてもいいような独り言。文字通り「つぶやき」だったと思う。

いつのまにか思ったこと書けばあっちかこっちに角がたつようになってしまったので、フォロワー0の鍵アカウントでもない限り、なんらかの気を遣ってつぶやかなきゃいけなくなった。

差別とか誹謗中傷とかは問題外として、例えば自慢話、ネタ、悲しい話、天気の話ですら誰かしら「傷つきました」と手を挙げるし、嫌なら見るなよも通用しない。あでもこれは関係ないな。

自分が気を遣わなきゃいけなくなったと感じるのは、Twitterに現れる僕の顔(人格)は1つなのに、それを見る人が想像する僕の顔はそれぞれの人と僕がリアルで会った時の顔なので、ギャップに不快感を与えると知ったからだ。

ネットで物申すマンなんてキャラクター?がいたけど、ネットで物申すマンっていう言い方はリアルでは主張とかしないけどネットではあーだこーだ物を申すやつは滑稽だってことよね。これはネット上の人格(発言)とリアルの人格(発言)が一致しているのが当然という考え方に基づいてる。

でも、人がいろんな顔を持っているのはネットがない頃から当然だったはず。父として、労働者として、夫として、ボランティアスタッフとして、地元の仲間として、違う顔を持つことは不自然じゃない。会社でパパの顔している人にはなかなかお目にかかれないでしょう。

僕もTwitterではいろんな人をフォローしてフォローされているから、いろんな顔を一斉に見せることになる。中学の友人に高校での僕の顔。サークルの友人に会社での僕の顔。会社の先輩にオタクの顔。そして、物申す顔。

僕がTwitterでモノを申す時、僕をフォローしてくれている人にとっては会社でパパの顔をしている人を見た時のショックを味合わせているのだと気づいた。

じゃあ1つの顔ごとに1アカウント持っていれば気楽につぶやけるねということになるけど、絶対に面倒くさい。

そういうわけで僕が安全に呟けることは、中学の僕でも高校の僕でもサークルの僕でも会社の僕でも言いなそうなことだけになるのだ。こりゃつかれるうえにつまらんことしか言えない。

しかもモノ申しコミュニティには所属してないから、それ用の顔も発行したことがない。第一モノ申しコミュニティなんかめんどくセー奴らばっかりでつまらなそう。いや、モノ申すやつはモノが申したいだけで議論したいわけじゃないからコミュニティなんてものは成立しないか?

そんなわけで、Twitterでモノを申すのは諦めた。フォロー関係という考え方にそぐわないよ。誰にも気を遣わずインターネットでモノが申せそうなところを考えてたらここについた。今更ブログですかって感じだけど、SNSが主流のいま、人と人の関係から断ち切られた場所は意外と珍しいかもしれぬ。

やっと見つけたぞ便所の壁。